[掌編]参考書は山に捨ててこい

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階段に蝉が腹を出して転がっていた。カラカラに乾いたその身体は、指で触れるだけで粉々になってしまいそうだった。
僕は大きなボストンバッグの肩紐を締め、彼の亡骸を見なかったことにして通り過ぎる。まるで半年先の自分を暗示しているようだった。

バス停には既に先輩が待っていた。動きやすそうなスキニージーンズにスニーカー、緩やかに身体のラインを浮き上がらせる細見のシャツとバックパック。先輩が遠足に行く小学生並みにウキウキしているのがわかった分だけ、僕の中で複雑な気持ちが大きくなった。
目の前でバスが止まる。行き先は、──山だ。

暑いな、と先輩は額の汗を拭った。山の中腹にあるという先輩の祖父の家を訪ねるために、僕らは二人で山登りをしている。
元々車でも行ける場所ではあったのだが、せっかくだから歩いておいで、と言われたとの事だった。僕としては車で行けるのなら車で行きたかったけれど、僕も先輩も免許を持ってはいなかったし、僕らの他に送ってくれる人がいなかったからだ。
僕にとって高校三年の夏の最後の週。本来ならば夏期講習の追い込みで灰色の机だけを見ているはずだった僕の夏休みは、先輩のひと声によって、瞬く間に視界いっぱいの緑と土の色に塗れてしまったのだった。
先輩、休憩しましょう、と先をずんずん登っていく先輩に、僕は干からびた声で抗議した。そもそも受験生という生き物はこんな激しい運動をすることを想定していないのだ。ただでさえここ一年半はロクに運動もしていないのに、突然山登りに連れ出されるなんて自殺行為にも程があった。肉体的にも、受験勉強的にもだ。先輩は大学に無事合格して花の女子大生なのだから、何の気負いもなく夏休みを満喫できるのだろうが、僕はそんな気楽さを持ち合わせてはいなかったし、持てるほど成績に余裕もなかった。
前を登る先輩は振り返って、僕に言う。
何を焦っているんだい、と。

靴は泥だらけだった。背中はぐしょぐしょに汗で濡れていたし、バッグを下ろした肩はガチガチに固まっていた。行きがけに買っていったお茶はとうに温くなってしまっていたし、僕の胸には後悔と不安と、とてつもない疲労だけが溜まっていた。
おまけに蝉の声は初心者だけを集めた下手くそで陽気なオーケストラみたいだったし、腕は虫に刺されて痒みが収まらない。バッグに詰めた参考書は、山登りにおいては僕になんの助けも与えてはくれなかった。
ほら、と。先輩は水筒のカップに注いだ水を、そんな僕に渡した。まるで今溶かしたばかりの氷水みたいに冷たかった。
どうして、と僕は先輩に言った。どうして、僕を誘ったんですか。ぼろぼろと、心の中でわだかまっていたものが溢れだす。僕が受験で忙しいことくらい、先輩くらい頭が良かったらわかるじゃないですか。そりゃあ先輩は大学一年生で、受験勉強もしなくていいし、暇で仕方がないかもしれないですけど、だからって僕の状況も考えてくれたっていいんじゃないですか。こんなところで山登りしているより、覚えなきゃいけないことだってまだたくさん残ってるんだ。そうしないと、来年路頭に迷うかもしれないんですよ、僕は。先輩くらい頭が良かったら喜んで付き合いますけど、あいにく僕はそんなホイホイどんな大学でも受かるような頭は持ってないんですよ。一分一秒だって無駄に出来ないんです。なのに、なんでこんな、山登りなんて──。

──君は、山を登ってから、何が見えた?
口から溢れるように零れた暴言の隙間に入り込むように、先輩の凛とした声が僕の耳に届く。まるで先ほどまでの喧騒が嘘みたいに、森は静けさを取り戻して、僕は俯いていた顔を先輩の方に向ける。先輩はもう一度同じように問いかける。君は、この山を登って、何を見て、何を聞いた? 何を感じた?

緑と土の色。
煩すぎる蝉の声。
泥だらけの靴と汗だらけの身体。
数歩前を歩く、先輩の後ろ姿。

君の事だから、そのでかいカバンの中には参考書が何冊か入っているんだろう、と先輩は言う。その通りだった。塾講師の声が頭の中にリフレインする。お前、ここで上がんなかったら、諦めろ。リフレイン。お前の弱点は視野が狭いことなんだよ。もっと全体から見て考えろ。リフレイン。

捨てなさい、と先輩は言った。君は参考書から顔を引き剥がすべきだし、なんならここに捨ててしまえばいい。そんなものはここに生えている苔にすら劣る役立たずだよ。
それは、と僕は思う。それはあなたが、参考書なんて必要ないくらいに頭がいいからだろう、と。先輩は、僕がそう思っていることを全部見透かすような目で僕を見る。君が今やるべきことは勉強なんかじゃない。もう一度言う。参考書なんて、捨ててしまえ。君が今見るべきは、その白と黒の無機物の先にあるものだ。この世界だよ、君。全てはこの世界を説明するために、そんな分厚い無機質な本は書かれているんだ。

だから、と先輩は重ねて言った。世界の中にある不快で複雑な全てを蹴飛ばしてしまったような、清々しい笑みを浮かべて。
参考書なんて、捨ててしまえ。
参考書が説明している数式の何倍も、目の前にある世界は鮮やかなのだから。

目を上げた先に。
眩しいほどの新緑。微かな風がその葉を揺らす音。けたたましいセミの声がフッと消えた隙間に滑り込んでくる、囁くような鳥の声。道の端に芽吹く小さな植物の芽。その全てが、圧倒的な存在感と一体感と共に、僕の目の前に迫ってくる。
前を向け、と先輩は言った。うつむくくらいなら上を見ろ。お前は、独りで生きてるんじゃない。一人で、戦ってるんじゃない。
はい、と僕は応える。参考書を捨てて踏み出したその一歩は、もう、独りじゃない。