それはある夏の日の、まだ陽の高い午後の事だった。
私達は、カーテンを締め切った暗い部屋の中でうずくまっていて、隣のリビングでは一組の男女が離婚話をしていた。一時の夫婦関係への終焉。むしろ終演と言ってもよかった。それほどまでにこれまで崩壊の兆しはいくらでも見受けられた。けれど大人は私達ほど素直に諦めることはできない。私達みたいにプライドをかなぐり捨てることもせず、意地を張ってまでこの演技を演技と認めようとしなかった。どこかに愛があると信じて疑わなかった。否、疑ってもいたし気付いてもいたのだろう。
そう、だからこその終焉、故の終演。
初めから嘘だったものに、真実のカケラは含まれない。そこにあるのは、行き着くべき事実でしかなかった。
「お姉ちゃん」
言い争う声が隣の部屋から聞こえる。傍らに寄り添う弟は不安げに私の服の端をつまんで、私を呼んだ。薄暗い部屋で二人、私達は手を繋ぐ。きゅ、と弱々しく握られた弟の手は微かに震えていて、姉ちゃん、と呼ぶ声はドアごしの怒声に掻き消される。
私は立ち上がって、そっとドアの隙間からリビングを覗き見た。いくらか前に見た光景と何も変わらない。テーブルを挟んで、険しい顔を突き合わせている。私は音を立てないように弟のところまで戻ると、今にも泣きそうな涙が私の手を握った。
──私が、守らなきゃ。
弟は私よりも、三つも小さいのだ。私だってまだ全然子供で、高学生が途方もない大人に見えるほどである。けれど、それでも、それでも、私は、お姉ちゃんなのだ。
姉は弟を守らなきゃいけない。
「ねぇ。……二人で、逃げよう」
私は弟にそっと告げた。このままここで震えていたら、また叩かれる。殴られる。私達にとって両親に離婚は、その2つが1つになるだけのことだった。それなら、今と何も変わらない。弟がまるでこの世の終わりのような顔をする。それでも鳴咽はもらさない。えらいね、と優しく頭を撫でてから、私は弟の手を取ってカーテンを静かに開いた。そのまま開けずに、カーテンの外側へと滑り込む。
カーテンの向こうは、溶けるような夏だった。庭には伸びきった雑草が青々と背を延ばしていて、庭におりるためのサンダルが二つ転がっている。弟には少し大きいが、無いよりはましだろう。
からり、と一人がぎりぎり通れる分の隙間を開けると、茹だるような夏の匂いが鼻についた。まずは弟から外に出して、次に私が半身でそっと外に出る。開けた時と同じように、静かに隙間を閉じる。部屋は薄暗い。ぱっと見るだけではよく見えない暗さなのだから、きっとすぐには気付かれないだろう。
「行こ」
「…ん」
私達は大きすぎるサンダルをぺたぺた引きずるようにして、自分の家を飛び出した。もう、あの場所に戻りたくなんかない。私はそう心に決意して、一度だけ振り返り、そしてもう二度と振り返らなかった。
コンクリートは太陽と知恵比べをしているかのように熱を持ち、当然その上を歩く私達もその知恵熱にさらされることになった。もう夏の終わりとはいえ、背中にはじっとりとシャツが張り付いて気持ち悪い。
「お姉ちゃん」
「…何?」
「どこに向かってるの?」
弟のその問いに私は答えなかった。答えなどなかったし、考えてもいなかった。行き先の無い逃避行は所詮お金のある大人がすることで、私達には移動資金すらない。しかし資金はなくても手段はある。私達には脚がついているのだから、歩くしかない。
「お姉ちゃ、」
「おばあちゃんち」
「え?」
「おばあちゃんちに、行こう」
姉の沈黙に堪えられなくなった弟が再度私の名前を呼ぼうとするのを言葉で遮り、無理矢理に目的地を決めた。淕楼のおばぁちゃんの家。車で一時間はかかる距離。
小学生の足では、果てしなく遠い。でも、あてもなく彷徨って連れ戻されるよりもずっといい。出来るだけ遠いところに。私は記憶を引きずり出す。とりあえず大きな道路に出れば、ひとまずの方向が決められるだろう。がぼがぼのサンダルを地面にこすりつけながら弟を引っ張る。
弟は今にも油が切れそうなロボットだった。しょっちゅう立ち止まっては「帰ろうよ」「もう歩けないよ」と泣き言を言った。そのたびに私は、
「帰ったらもっと打たれるよ」
と叱り付けた。もしかしたら今までで一番酷く打たれるかもしれない。打たれ続けて死んでしまうかもしれない。自分でそう言いながら私はぞっとして「早く行くよ」と手を引っ張るしかなかった。
ひまわりが咲いていた。
道沿いをずっと真っすぐ行けば、おばあちゃんの家の近くまで行ける。たまにしか行かないのに、何故か私はおばあちゃんの家までの道をはっきりと思い出せた。遠く真っすぐ伸びる道の脇にはぽつぽつと民家があって、時折ぽっかりとあいた原っぱが山の麓まで続いている。そして必ず、原っぱにはひまわりが咲いていた。
黄金色の道標が、道路と競争するように並んでいて、私はふと立ち止まる。振り返ると、少し後ろで自分よりも高い背丈のひまわりをじっと見上げている弟を見つけた。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
「なに」
「ひまわりって、なんだっけ」
「……何?」
「ひまわりって、なんで咲くんだっけ」
「花、だからじゃないの」
「ううん」
そうじゃない、そうじゃなくて、と弟はそのまま口をつぐんで、結局何も言わずに私のところまで駆けてくる。ひまわり。私と同じくらいの高さで、私の顔よりも大きい花を咲かせる。その過程には理由はいらないはずだし、特に何もなかったはずだ。
ずっとずっとまっすぐに、ぽつんと一本の道路は伸びていく。ひまわりはそっぽを向くようにして、私達の進む方向に顔を向けている。ひまわりが咲く向き。どこかで誰かが言っていた言葉を思い出そうとして、誰だったのか何だったのか思い出せないまま、私は謎が解けないむずむずを抱える。
──ひまわりって、何で咲くの?
昔誰かに、そう聞いたのだ。けれど、その答えが何だったのかを、誰に聞いたのかも、思い出せない。
ひまわりはずっと先まで続いている。
もしかしたらその答えは、ひまわりの咲く先にあるのかもしれなかった。
太陽がだんだん傾いて、私達を追い越していく。それでも私達はその真っすぐな道をずっと歩き続けて、その道は徐々に枝分かれしてゆく。コンクリートが真新しく黒光りしていて、けれどその道の端には小さな花がいくつも咲いていた。名も知らないような小さな花が、いくつも。
二つめの曲がり角を曲がったあたりで、私は何故この道を知っているかを思い出した。今よりももっと昔、おばあちゃんと歩いた道。おばあちゃんのしわしわの手に握られて、むずがゆいような気持ちで、でもどこか安心できる力強さに包まれて、まっすぐ伸びたあの道を辿ったのだ。
そうだ、あの時におばあちゃんは言った。
ひまわりが咲いたほうには──、
「……着いた」
どっかりとした風格のある一軒家が、そこにはあった。
おばあちゃんの家だ。家の門の周りには何台かの車が停まっていて、黒服のおじさん達が怪訝な顔をして私達を見ていた。その中の一人がはっと気付いたように駆け寄ってきて、ふらふらの私と弟の前にしゃがみ込む。名前を告げると、泣きそうに顔を歪ませて、おいでください、と言った。
重苦しい音を立てて、門が開く。私達はゆっくりとその向こう側に足を踏み入れた。何度来ても慣れない堅苦しさ、しかしどこか優しさの混じった空気。玄関まで続く道の脇には、ひまわりがこちらをじっと見ていた。風に揺られながら、黙したまま。
喉がからからに渇いていた。脚は棒のように感覚が無くなっているし、今にも倒れそうだった。疲労で意識が刈り取られそうになるのを、がくがくと震える脚を支えるのを、必死に我慢して玄関の前に立つ。横引きの扉は勝手に開いた。そこには、
「────!」
それは多分、私の名前だったのかもしれない。父親と向かい合い、険しい顔をして離婚届けを睨んでいた母親。それがもうずいぶん昔のようなことに思えた。その母親が涙を流して私と弟を抱きしめている。耳元では何回も繰り返される謝罪の言葉が、私の耳にこびりつく。謝罪の合間に、これからはみんなで頑張っていこうね、という言葉が聞こえたような気がした。
親方の挨拶にきたのかもしれない。げっそりとした父親が廊下から玄関に歩いてきて、私達を何とも言えない眼で見た。私はぼんやりとその顔を見返す。
ああ、なんだ。
私の父親は、こんな顔をしていたのか。
そこまでで、私の意識はぷつりと切れた。
夢は、見なかったと思う。
広くて、古ぼけた天井がぼんやりと私の視界に映り、そういえばここはおばあちゃんの家なんだっけ、と思い出す。
隣には弟がすやすやと眠っていて、庭の方を見ると、かすかな光が障子を照らしていた。月明かりかもしれない。身体を起こすとぎしり、と全身が軋みを上げる。はいずるようにして障子を開け、御縁に腰掛けて脚をぶらぶらと揺らした。
太陽はとうに沈んでいて、雲一つない空にぽっかりと月が浮かんでいる。広い庭の端っこの方、玄関の脇に見えたひまわりがこちらを向いている。夜でも変わらずに、その太陽は咲き続けていた。
「………なんで、ひまわりは咲くのか」
太陽のように、大きくて力強い花。その花が向く先には太陽がある。太陽のあるほうへその向きを変えるのだと、私はひまわりを知っていた。けれど、おばあちゃんは、そうは言わなかった。
そう、ひまわりが咲く先には──、
「ひまわりは太陽のほうを向いて、暑くないのかなぁ」
幼い私。隣にはおばあちゃんが歩いていて、その呟きに「そうだねぇ」と言った。
「もしかしたら暑がりなのかもねぇ」
「えー。わたしは涼しいほうがいいな」
「きっと、ひまわりがみんなの暑さを肩代わりしてあげているのかもしれないねぇ」
「かたがわり、って、なあに?」
「かわりに、ってことだよ」
「だから、おばあちゃんちはあんまり暑くないの?」
「そうかもねぇ」
おばあちゃんはゆっくりとしたペースで私と話していた。まだ弟が赤ん坊で、歩きもしなかった時の頃の話。
「ひまわりは優しい花なんだね」
そうだね、とおばあちゃんは言って、思い付いたように私の耳元に口を寄せた。
「ひまわりが咲いている先には何があるか、知っているかい?」
「? たいよう、じゃないの?」
おばあちゃんは笑いながら首を振る。私はわからない、と唇を尖らせて先を促す。おばあちゃんはそっと、大切な秘密を打ち明けるように私の耳元で囁いた。
「──”幸せ”があるんだよ」
その時私はどんな顔をしたのだろう。疑うような怪訝な顔をしただろうか。いや、違う。満面の笑顔で、おばあちゃんと一緒に唇に指をあてて『しぃーっ』としたのだ。
おばあちゃんと私の、大切な秘密。
ふ、と。鳥の囀りが聞こえた。それは回想とも夢とも取れる速度で霧散し、空のぼんやりとした朝焼けに溶けていった。
ひまわりはまだ、私に向いたままだ。
私はうん、と一つ頷いて、寝床へ戻って横になる。
朝になるには、まだ早い。
陽がのぼって、両親は手を繋いでいた。どうやら今までの演技を全部帳消しにするらしい。おばあちゃんが直接叱り付けたからかもしれないし、もしくはまた何度目かの仲直りかもしれなかった。
帰るよ、と伸ばされた手を見つめ、私は沈黙する。弟が不安げな顔でお姉ちゃん、と手を握り、再度母親は帰るよ、と言った。
私は顔を上げ、言うべき言葉を返す。
「さよなら」
幸せを知っている花が、私の隣に咲いている。
そして私は、その花が向いた方へと歩きだした。