雨と珈琲:1話 砂糖とミルクと優しさの分量

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「大丈夫」「気にしないで」という許しの言葉がどれほどの救いをもたらすのか、彼はきっと知らずにその言葉を告げるのであろうし、またそれと同じようにその言葉が酷く傷付け、絶望の中に突き落としてしまうこともあるのだということを、きっと彼は今も、これからも知らずに、その優しい言葉を使い続けるのだ。

頼んだカフェオレを見つめながら、彼は優しすぎるんです、と彼女は言った。優しすぎて、辛いんです。
ぼくはいつだったか、誰かに同じようなことを言われた事を思い出す。優しくすることが必ずしも幸せを与えるとは限らないという事実は、その頃のぼくにとって相当なショックを与えたものだったし、自分が他者に与えられる唯一のものが優しさであった自分にとって、それは自分というものの存在の否定にも思えた。結局のところそう言った彼女は前に付き合っていた彼氏と浮気をしてぼくと別れ、そのヨリを戻した彼氏に再び暴力を振るわれては別れるという顛末を知った時には、どうにか自分の存在意義を正当化する事が出来たのだった。
それから数年が経った今、彼女の語る彼の優しさはぼくにとって痛いほどわかった。お皿を割ってしまったり、飲み物をこぼして汚してしまったりといった、いわゆる彼女の小さな過ちを彼はこともなげに許すのだ。割ってしまったのなら代わりを買えばいい。汚してしまったのなら洗えばいい。大丈夫だよ、と彼は笑った。どうして怒らないの、と彼女は言う。怒るほどのことじゃないからさ、と彼は答える。ただ優しく、次の日にはテーブルクロスはベランダに干され、新しいお皿に彼の料理が注がれている。
今のぼくならその残酷さを理解できる。その不気味さと底知れなさにゾッとするだろう。しかし彼自身はそれには気付かない。優しさこそが世界の中で一番尊いものである事を信じているのだろうから。

君はどうなりたい、とぼくは彼女に聞いた。彼女の言葉は単純だった。別れたい、と彼女は言った。けれど彼女は彼のことを嫌いになったわけではないのだ。それが何よりも辛いのだ。底知れぬ彼の優しさの影に、取り換え可能な自分の姿を見てしまう自分がいることが、何よりも辛いのだった。別れたくない、でも、別れたいんです。彼女は一見矛盾した言葉と共に涙を流した。
こういう話をするときの天気はいつだって雨だった。静かな店内に物悲しくゆっくりとしたピアノの旋律が流れていて、彼女の圧し殺した嗚咽を包んでいた。先程から一口も進まない珈琲からは湯気が消えていて、ぼくらは堂々巡りの問題に対して半ばそれを解決することを諦めていた。彼女の嗚咽が少しずつおさまっていって、ぼくは初めて珈琲に口を付けた。いつもより随分苦い味がした。
きっと彼は、別に私じゃなくてもいいのよ、と彼女はポツリと言った。彼女の前に置かれたカフェオレの水面が波紋を作り、きっとそうだわ、と彼女は繰り返した。

割れた皿が新しく替えられるように。
汚れたものが洗われるために取り除かれるように。
それは彼女にとって許される優しさではなかった。新しく替えればいいから割れてもいい、洗うから汚れてもいい、代替可能な個人という無関心だった。たとえ彼がそんなことを少しも思っていなくたって、彼女にとってそれは深い絶望だった。

彼女はそのまま席を立ち、ありがとう、と一言だけ呟いて、一口も飲まなかったカフェオレ代をカウンターに置いて店を出ていった。ぼくは彼女に「別れればいい」と一番楽で一番残酷な言葉をかけることも、「そんなこと彼は思っていないよ」と何の確証もない気休めをかけてあげることもしなかった。ぼくは何も言えなかったし、彼の代わりに彼を弁明したところで、きっと彼女の絶望を拭い去ることなんて出来ないのだ。

彼女から一言、やっぱり別れることにする、と連絡が来て、ぼくはため息をつく。
多分、恋愛の中には正しい答えなんて一つもなくて、ぼくらはその選んだ答えをいつだって正しいと信じていくしかないのだ。それがどれだけ客観的に絶望の果てにある答えだったとしても、二人が選んだ百点満点にしていくしかないのだ。

静かに後ろの席から立ち上がった男性が、まだ彼女の温かさが残るカウンターの席に座る。ぼくは彼にカフェオレを奢る。彼は長い沈黙をそのカフェオレと共に過ごして、独り言のように問いかけた。
──俺、どうしてやればよかったのかな。
わからない、とぼくも独り言のように呟いた。
きっと、どうしようもなかったし、そしてこれからもどうなるかはわからないままだ。ただひとつわかっていることは、彼女はもう、彼の隣にはいないということだけだった。
わからない、とぼくは繰り返し呟いた。恋愛なんて、うまく行く時は奇跡的にうまく行くし、うまく行かない時は絶望的にうまく行かないんだ。
そうだな、と彼は言って、カフェオレを一気に飲み干した。絶望的にうまく行かなくても、それでも俺は彼女と一緒にいたいよ。
今度はお前が奢れよ、とぼくは言う。ドアに付けられたベルが涼やかな音を立てて、彼は店を出ていった。
ぼくはメニューを開く。