奇遇だね、とぼくは彼女に向かって笑いかける。
必然よ、死ねば良いのに、と彼女はいつかと同じように嫌悪感を隠さずそう答えた。
彼女に新しい彼氏ができてから笑ったところをぼくは見たことがないのだけれど、かつてぼくの隣にいた彼女が朗らかに笑っていたことを、ぼくは覚えている。
恋愛というものに対してぼくは必ずしも良い面だけを体験したわけじゃないし、どちらかというとすれ違いや離反、裏切りを多く含むものだということをまざまざと見せつけられた。それでもぼくが恋愛に対して絶望していないのは、ひとえにぼくがお人好しであったからなのかもしれないし、もしかしたらとっくの昔に絶望なんてものは通り越して、一種の諦めの境地にいたっているのかもしれなかった。ともあれ彼女が遠い昔ぼくの彼女であった頃には、恋愛に対してぼくは絶望も諦めもしていなかったし、彼女はぼくに向かって笑いかけてすらいた。そしてその頃のぼくはそれがどれだけ無駄なものだったのか感覚的に理解していたのだろうと思う。
彼女はおそらく自分ではひどく純粋に純愛を全うしていると思っているタイプの浮気好きな女の子だった。彼女の中には恋愛と友情の区別はほとんどついていなかったのだろうし、水路を流れ落ちてゆく木の葉と同じようにぼくと出会って恋人関係を結んだ。そうしてぼくが彼女と同じ木の葉にはなれないと思った時に、どれだけ彼女が自然に流れてゆけるかどうかを模索した。彼女にとっては運命の人が次々に現れるシンデレラストーリーなのかもしれなかったけれど、結局それは舞台の上の出来事でしかなくて、実のところ糸で吊られた人形が踊るのを見て笑う少女のようでもあった。それは滑稽で幸せな夢のようなものだった。
話があるの、と彼女は言う。あの頃のことを、あなたは覚えているかしら。
どのことだろう、とぼくは彼女との情事を思い出しながら、あの雪の日の話かな、と口に出す。彼女と最後に会ったのは数年前の恋が終わる瞬間だった。幼かったぼくにとってそれはまるで背負い続けた十字架を丘の頂上から投げ捨てるような感覚だったことを今でも覚えている。君はあの日、一滴も涙を流さなかったね。
そんなことはどうでもいいの、と彼女は苛立つように言った。彼女があの時の恋人と結婚生活を営んでいることはずいぶん前に聞いていたし、彼女の薬指には濁った銀色に光る指輪が嵌まっていた。まるでそれは戒めのために縫い付けられた楔のように見えた。ねえ、ゆうくんに聞いたんだけれど、と彼女はぼくの目を見据えて言う。あなたたち、わたしに隠し事してるでしょう。
多分彼女にとってそれは今後の結婚生活を上手く続けて行くために必要な行為なのかもしれない、とぼくは思った。まるで脂の乗った焼き魚を食べた時の骨がずっと引っかかって抜けない居心地の悪さを払拭するために、ご飯を無理矢理に飲み込んだりしたものの、しかたなく病院に行くことにしたような──そんな目を彼女はしていた。
正確には、と彼女は続けて言った。わたしたちが出会った時に演じられた恋愛物語についてよ。
たとえば恋愛というものに対してもぼくらは初めてそれに触れてから、その定義について一応の答えを得るまでひどく長い時間を有したように、その間には仮初めでわかりやすいものを求めるのは、言ってみれば必然的なものだったのだと思う。恋愛というものが多様であることを容認しながら、その在り様に対して一つの定型をはめ込むことでぼくらは誰かを好きになるということを理解していた。そのくくりで表現するならばぼくらの恋愛というものは所謂悲恋の一つに数えられるのだろうと思うし、そうなってしまった原因は何よりぼくにあったことは揺るがない事実だった。
彼女はぼくと同じで恋人というものを尽くす対象として選んでいたのかもしれないし、かつ尽くされるべき相手を選ぶものだと思っていたに違いない。だからこそぼくは彼女との恋愛に満足していたし、それゆえに双方がそれによって疲れてしまっていることも知っていた。ぼくらは初めから相手のことを見てもいなかったのだ。ただ奉仕する対象が欲しくて、それが恋人である必要性は今思えば結局のところ皆無だったのだろうと思う。
彼女は頑なにそれを否定したし、その痛みを耐え切れば幸せがあることを信じていたのだと思う。けれどぼくらは疲れていた。どうしようもなく、だ。
そうやってぼくが疲れきった彼女を──または同じ様にぼく自身を──救うために、程のいい新しい相手を用意した。そいつは気の良い野球少年でエースだった。頭はあまりよくないけれど、人間性は誰もが認めるほど正直な男だった。
彼女の相談に乗った彼はたちまち彼女に気に入られた。そうやってぼくは少しずつ彼女とそっけない態度を取るようにして離れていったのだ。
彼はとても正しい男だった。だからあの日のことを、あの恋愛のことを少なからず自己嫌悪として受け止めていたのかもしれない。どんな理由があったにせよ、構図としてはぼくから彼女を横取りしてしまったようなものなのだから。そのことについてぼくに彼はいいのかとは問わなかったし、ぼくはただ、彼に彼女の相談と愚痴に付き合ってやって欲しいとしか述べていないのだ。全てがまるで馬鹿みたいに計画通りに進んで、あっけないほどにぼくの恋はあの雪の日に終わりを告げたのだ。そしてその時にぼくは彼女に、一枚のCDを渡したことを思い出す。ぼくがそれを彼女に渡したのは、きっと何もかもが上手くいく事に対しての小さな悲鳴のような皮肉だったのかもしれない。
ガラス玉ひとつ落とされた 落ちた時 何か弾き出した 奪い取った場所で 光を浴びた──。
多分正直な彼はそれを聞いて、罪悪感に耐えられなかったのだろう。
君の言う通り、そして彼の言うとおりぼくは君を騙していたと言っても過言じゃない。けれどそれが今更何になるって言うんだい。君は彼を選んだし、そしてそれが正しかったことはその薬指が証明しているじゃないか。ぼくはいつかくるこの日を待ち望んでいたかのように彼女に告げる。ぼくは最初から最後まで、君が正しい恋愛を出来るように──君が幸せであるように、努力しただけなんだ。
演技をするのはやめて、と彼女は悲しそうな目をしながら言った。とても懐かしい目だった。私が聞きたいのはそういうことじゃないの。
ぼくが語ることはもう何一つないよ、とぼくは店に入ってから一度も口を付けないまま冷え切ってしまったカフェラテを傾ける。君が幸せになった。それ以上の結末は存在しないし、それで物語は正しくハッピーエンドに終わっているんだ。
いいえ、と彼女は言う。ねえ、今だからわたしはこう言えるけれど、何が正しいかだなんて、恋愛には存在しないのよ。たとえあなたが今話したように、わたしのことを誰よりも考えた末にその悲恋に満ちた脚本を演じ切ったのだとしても、それはその恋愛が正しい結末を迎えたかということとは全く関係がないの。それは結局あなたの独りよがりでしかないわ。ぼくには彼女の言っていることが何となく理解出来たし、その次に彼女が言うであろうあまりにも滑稽で無機質な恋愛の真実について、ずっと昔から──彼女に最後に会ったあの日から感じていたことが、確信に変わるような気がした。
だって、そこには三人の役者がいるだけで、観客なんて一人もいなかったのだもの、と彼女は言った。
はは、とぼくは笑う。ぼくらは誰かを救おうとして、誰かを愛そうとして、皆が皆それぞれの役割を演じていただけだったのだ。そこには幻想に夢見た観客の少女なんて存在しなかった。彼女はずっと、ぼくらと共に紐に吊られて踊っていたのだ。馬鹿だったわね、と彼女は独り言をつぶやくように言葉を漏らす。誰かが幸せになるために自分を犠牲にすることほど、滑稽なことはないわ。
ぼくを見る彼女の瞳が強い光を得ていることにぼくは気付いて尋ねる。これから君は何をするつもりなんだい。彼女は寂しそうに笑いながら、その薬指に嵌められた楔を抜き取りながら言った。そろそろ幕引きの時間だわ。わたしもあなたのように、舞台から降りようと思うの。
数日経って、無事に離婚届に判を押した彼と、ぼくは昼間から酒を飲んでいた。何もかもが馬鹿馬鹿しくなりそうなほど澄み渡った空の下で、その色をそのまま映し混んだような川のせせらぎを聞きながら、少しぬるくなった麦酒を煽る。
ぼくらはずっとあの日から、間違った恋をしていたのかな、と今でも正直な彼は河原に向かって呟いた。ぼくは同じ様にさらさらと流れる水と、そこに揺蕩う木の葉を目で追いながら言う。多分恋には、間違いも正しさもないんだ。ただあの頃のぼくらは、自分を操る糸を切ってしまうことが怖かっただけだよ。
ありがとうな、と彼は言う。彼はまた新しい恋を見つけるだろう。彼女がそうしたように、再び新しい舞台に上がって、今度は自分の足で立ってそれを演じることだろう。壇上が世界の全てなのだと、そう歌い上げながら。