それは嘘のような本当の話。
例えばね、と彼女は前置きして話を始める。
今日はエイプリルフール。
──嘘の日だ。
たとえば世界が今日の終わりになくなってしまうとしたら、なんて仮定はどこにでも転がっていて、結局のところその話題は『今を大切に生きよう』なんてありきたりな結論に至るだけで終わってしまうものよ。それこそ世界の終わりなのかもしれないし、もしかしたらわたしたちが見ている世界も幻でしかなくて、もう既に終わっているのかもしれない。
彼女は取り留めもない日常を話すような口調でそう語り、そしてぼくはコップに注がれた麦茶を見て泥水のようだな、と思う。
いっときの夢のようなものなのかもしれない、と。
どこまでも仮定の話をする。それが唯一許される時間がここにはあって、そしてぼくらはまるで空に浮かぶ雲の形を何かに例えるような気軽さで、不確定な世界のことを話す。
たとえばこういうのはどうかしら、と彼女はその手に持った麦茶を一口飲んでからまた話し始める。もうわたしたちはとっくに絶滅してしまっていて、唯一生き残ったのがわたしとあなた。そこは箱庭のようなもので、かつてわたしたちが住んでいた世界と何も変わらないように作られた世界なの。けれど本当に生きている人は二人だけ。あなたと、わたし。
ねぇ、それってとてもロマンチックじゃない?と。
だとしたらぼくらは何のために生かされているのかな、とぼくは彼女に問いかける。麦茶にいれた二粒の氷が綺麗な音を立てて崩れる。世界の終わりを迎えたあとで、『神様』にぼくらが生かされている理由は何なのかな。
さぁね、と彼女は肩を竦めて苦笑する。わたしたちは夢を見て、愛し合って、そして老いて朽ちてゆく。それを許容する理由なんてそもそもないのかもしれないわ。”そこにあるということ”が意味を持つのだとしたら。
窓の外側で無機質に、無感情に風は流れて、雲が形を変えてゆく。だとしたら、と彼女は続けた。だとしたら、わたしたちを観察している神様は、随分と暇人なのかもしれないわね。わたしたちはただ、いるかもわからない神様という架空の存在をこねくり回して、そうして縋りたいだけなのかもしれないわ。
じゃあ、君はどう思う? 今日でその箱庭に爆弾が落とされて、ぼくらはただの実験動物でしかなくて、生き残れるかどうかの実験の被験者になってしまったとしたら。君はどうする?
わたしはその時がいつ来てもいいと思っているの、と彼女はその手にグラスを柔らかく握りしめながら、まるで祈りを捧げるように目を閉じて言った。
結局自分が実験動物であろうとそうでなかろうと、わたしはここに生きて、あなたと話しているわ。もしかしたら今この瞬間の後からは、好意を持って、そして行為を以ってあなたを愛するかもしれない。たとえばそれを愛と呼ぶのか、神様からの条件付けがなし得た業なのか、わたしにとってはどうでもいいことなのよ。だから、わたしは後悔もしないし、わたしはわたしのままで生きてゆくと思う。それが全て紛い物であっても、偽物であっても、本物でないとすることが偽物でなければならないということはないでしょう?
もしかしたらぼくらはこの瞬間に死に、そしてこの瞬間に生まれ直しているのかもしれないね、とぼくは言った。過去と未来と現在には実際のところ連続性なんかなくて、ただ今という瞬間に生まれるために過去を思い出せるように記憶を、未来を見通せるように予測を得ているだけかもしれない。次の瞬間には君の事を誰よりも愛しているかもしれないし、また次の瞬間には誰よりも君の事を憎んでいるかもしれない。世界は整合性を取るためにその生まれ変わった感情を削り取って、均して、そしてぼくらは無関心というものを知ったのかもしれない。
あなたは本当にわたしに似ているわね、と世界の終わりで彼女は言った。わたし、神様なんて信じない。(あなたが/わたしが)作りものの紛い物なんて、信じたくないわ。
だとしたら、そう。
世界の終わりというものは、ぼくらの指先ひとつで生まれてくるものなのだ。彼女がまるで泣きそうな顔をして、それでも一生懸命笑うような表情で、ぼくに手を伸ばす。ぼくはそれを止める事はなく、その手がぼくに届かない事も、わかってしまっていた。
限りなく透明な硝子に彼女の指先が触れて、そして絶望と共に彼女は泣き崩れる。
無色透明の死が空気に混じり、徐々に息ができなくなっていく様をぼくは硝子越しに眺めながら、彼女の世界の終わりを見届けた。
神様はどこにでもいるよ、とぼくは呟く。
誰にも気付かれるはないけれど、と。
ぼくはその透明な世界の向こう側にある、無機質な白い部屋と窓の向こうに流れる雲を見上げる。彼女の綺麗な亡骸は空間に溶けて消えた。
エイプリルフール。
愚か者の世界の最後に、ぼくは抗わない。
彼女がいた部屋の方の硝子が磨りガラスのように曇って、ぼくはその神様が起こしたエラーを嬉しくも悲しくも思う。記憶が連続している事は、どれだけの悲しみを得るためのものなのだろう、と。
磨りガラスの向かい側が溶けて消えるように無色透明の硝子へと変わってゆく。
やあ、とぼくはその人に笑いかける。
何も知らない振りをして。
たった二人きりのアダムとイブになりきって。
彼女の手の中にある見えない世界の終わりがいつまでも押されない事を願って。
世界の終わりまで、嘘を始めてゆく。