──こんなはずじゃなかった。
手に握りしめた麻の袋の中で銀貨が嫌な音を立てながら跳ねる。息が詰まる。一刻も早く、これを手放したい。なぜこんなもののために、わたしは、と歯噛みしながら、とにかくピラト総督がいる官邸へと走り続けていた。
まだ夜も明けたばかりの街路にはほとんど起きている人もいなかった。薄暗い夜道が少しずつ明るくなっていく。それがわたしには、自分が犯した過ちを明るみに照らし出されるカウントダウンのように感じる。やめろ。夜よ終わらないでくれ。
今にも尽きそうになる息にも構わず、夜から必死に逃げるようにして、総督ピラトがいる総督官邸にたどり着いた。官邸の入り口の門の前には十数段の階段があり、門の向こう側には、明け方にもかかわらずぞろぞろと列をなしている人々が見えた。式服をまとった祭司、高名な律法学者たち、それに連なる長老たちの間に、場違いなほど質素な一人の男が見える。手に縄をかけられ、両脇には物々しい憲兵に縄を引かれている。しかしその顔には何の表情も浮かんではいない。不安も、悲しみも、憎しみも。
待ってくれ!
そう叫ぼうとしたが、わたしの喉はカラカラに乾いていて、実際に口から出たのは情けないかすれた吐息だけだった。それでも行列になっていた何人かはわたしに気付き、侮蔑の視線を向ける。行列は止まることがない。彼らに追いつかなければならない。急いで走り抜けた足は棒のように力が入らず、がくがくと震える。震える足をたたきながら階段を上る。
門の前にたどり着いたとき、行列の最後を歩く長老たちはぎょっとした顔でわたしを見た。当然だろう。彼の弟子でありながら裏切り、彼を売り渡した張本人が帰ってくるなどと、悪趣味でしかない。神の裁きさえ恐れぬ極悪人め──そう無数の目がこちらを射抜き、足が止まる。それでも言わなければならない。
つばを飲み込み、口を開く。手に握りしめた麻袋を掲げるようにして叫ぶ。
「聞いてくれ!」
わたしの声に一瞬、彼らの行列が止まる。わたしは必死に言葉を続ける。
「わたしは罪を犯した!」
祭司であれば、ファリサイ派であれば、ラビたちであれば必ず聞いてくれるだろう言葉を選ぶ。行かせてはならない。私は告白しなければならない。
「わたしは罪のない人を、この銀貨三十枚で売り渡した!」
長老の一人が進み出て、わたしを見る。そこに罪を償おうとする者への憐れみはひとかけらも感じない。私は続ける。
「この通り、銀貨三十枚、そのままあなたがたに返す!だが裁かれるのはわたしだ!わたしの罪を裁いてくれ!」
長老は静かに麻袋を持ったわたしの手を取り、それを下げるように促す。周りはどよめきながら事の次第を見守っている。しかしそこに告げられる言葉は、わたしにとって何の救いもない言葉だったことを、私は思い出す。
「これは、」
長老はわたしの手から麻袋を取り、そのまま手を開くようにして落とす。ゆるく結ばれた麻袋が大理石の階段にあたり、手あかのついた銀貨がけたたましい音を立てて散らばっていく。わたしの耳に、長老の静かな声が浮き上がって聞こえる。
「──お前の問題だ。我々の知ったことではない」
それだけを言い捨てるようにして、長老はわたしに背を向けていく。行列が再び動き出す。わたしはその行列を見送ることしかできない。今になって何もかも徒労であったという絶望が足の力を奪い、その場にへたり込んで動けなくなった。行列の間から、彼の顔が一瞬だけ見えた。彼の唇が、わたしの名前を呼んだように見えた。見間違いかもしれない。しかし確かにわたしの耳に、その声は届いた。
──ユダ。
涙は流れなかった。ただそこには明けることのない暗闇のような絶望だけがあった。朝日が昇る。わたしの罪がすべての人の前にさらけ出される。そしてそれは何千年という時を経てもなお、消えることはないだろう。わたしは知っている。わたしが何と呼ばれているのかを。
わたしは裏切り者のユダ──イスカリオテのユダ。