それから一週間は飛ぶように過ぎた。
年に一回の民衆のガス抜きと見ているのか、過越祭の期間に入るとローマ帝国の憲兵たちも比較的寛容になる。完全に監視の目がなくなるわけではないが、監視の目が緩まるに越したことはない。何か違法なことをしているわけではないが、どこかそわそわとした落ち着かない気持ちを抱えながら、ザアカイに教えてもらった宿屋へ足早に向かう。
宿屋の前には親切にもザアカイが立ってくれていた。私に気付くと、手を上げて挨拶を交わす。
「準備は整ってる。入ろう」
ザアカイに先導されるまま、宿屋に入る。焼かれた子羊の匂いが漂ってくる。
通された大広間には、幾人かの弟子たちと、イエスが座している。ザアカイと共にイエスのところに近付くと、彼は朗らかな笑顔を浮かべて迎えてくれた。
「ようこそ、ユダ。君を待っていたよ」
さあ、こちらへ、と勧められたのはイエスの隣の席だった。わたしは驚いてその勧めを断ろうとする。
「ちょ、ちょっとまってください。わたしは客人に過ぎません。末席で結構です」
「何を言っているんだ? 客人だからこそ、あなたにはここに座ってほしいんだ」
種無しパンが香ばしく焼かれて積まれた皿が運ばれてくる。一人ひとりの前に苦菜が添えられた皿が並べられていく中で、逡巡する。有無を言わせぬ笑顔で、さあ、と再度勧められ、わたしはザアカイに助けを求めるように視線を送った。しかしザアカイは「諦めろ」とばかりに肩をすくめて目を閉じる。
「……では、失礼します」
わたしはイエスの隣に寝そべるようにして食卓につく。広間で食事をする際には基本的に横になり、肘で体を支えながら食事をするのが普通だ。しかしそうすると、皆が顔を突き合わせての食卓になる。いつも共にいる弟子たち同士ならいざ知らず、今日初めてイエスに会いに来たようなわたしが、こんな場所に座らされるとは思いもよらなかった。周りの弟子たちからの視線が突き刺さる。居心地が悪い。
しばらくすると、焼き上がったばかりの子羊の肉が運ばれてきた。苦菜が乗った一人ひとりの皿に分けられ、また中央に置かれた種無しパンの隣に塩水の皿が用意される。これで過越の食事の用意が整った。イエスがまず体を起こし、呼びかける。
「さあ、主の過越を祝おう」
蝋燭に火が灯され、部屋がより明るくなる。イエスと同じように寝そべっていた弟子たちと共にわたしは体を起こし、祈りの姿勢を取る。イエスは両手を手を上げ、祝福の祈りを唱える。
「私たちの主なる神が、主の過越を祝うあなたがたを祝福し、守られるように」
葡萄酒がイエスの盃に注がれ、イエスから隣の弟子に渡される。一口ずつその葡萄酒を回し飲みし、わたしも一口含む。少し古くなっている独特の渋みが舌に広がる。最後の一口をイエスが受けとり、飲み干した。
「我々がかつて受けた苦しみを思い起こそう」
イエスの勧めと共に、苦菜を塩水につけて口にしていく。これはエジプトでユダヤ人たちが奴隷となっていた時の苦しみを思い起こすものだ。苦々しい味を噛み潰しながら顔をしかめる。
ふと、周りの弟子たちを見てみると、同じように顔をしかめていて、少し安堵すると同時に親近感が芽生える。イエスの弟子とはいえ、彼らはわたしと同じように、イエスのもとにやってきた普通の人間だ。漁師もいれば徴税人もいる。人々からは罪人と呼ばれて差別されていた人の顔も見える。考えてみれば当たり前の事だが、どうやら感じていた居心地の悪さは、それだけ自分が気負いすぎていただけだったのかもしれない。
「我々はかつて、エジプトにおいて苦難の時を過ごした。奴隷として虐待を受け、それを耐え忍んでいた。しかし、主はそれを決して見過ごされはしなかった」
イエスの前に並べられた二つ目の盃に、葡萄酒が注がれ、再び回し飲みされる。先ほどよりもさらに渋い味がする。一回りして返ってきた盃には葡萄酒が半分ほど残っていたが、イエスはそれをすべて飲み干し、子羊の肉を手に取って言う。
「主はエジプト全土を打たれ、我々の祖先をモーセによって救い出してくださった。これが、主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」
イエスは子羊の肉をおろし、種無しパンを一口大に割って、再び弟子たちに回していった。その間、詩編が歌われる。
主を賛美せよ 、主の僕らよ、主を賛美せよ
弱いものを塵の中から起きあがらせ
乏しい者を芥の中から高く上げ
解放された人々の列に帰してくださる
主を賛美せよ ──
配られた種無しパンに先ほどと同じように塩水に付けた苦菜を挟んで、口に入れる。パンに挟まれたことで、苦みがほどよい味のアクセントに変わる。
イスラエルの人々は長らく奴隷だった。その性根はなかなか変わることはなかった。神の導きと助けによってエジプトから脱出した矢先、彼らは神に不平を言い、黄金の小牛の像を造って祀り始めたのだ。いかに彼らが、彼ら自身を支える精神的支柱を求めていたかがそこには表れている。そしてそれは、目に見えるものでなくてはならないという弱さが表れている。だからこそ神は怒り、彼らを悔い改めさせるために、肥沃な約束の地──カナンの地に彼らを入れず、四十年もの間、荒れ野をさまよわせたのである。
彼らにとって苦難は形を変えて続いたということだ。しかし、それでもそこに、神が共にいるということの慰めと喜びを、改めて受け取っていったことだろう。まさにこの種無しパンに包まれた苦菜のように。苦しみは取り除かれずとも、包まれ、変化したのだ。
過ぎ越しの食事としての儀式的な流れを終えて、イエスは皆に食事を勧めるように促した。ほどよく熱が飛んだ子羊の肉は美味しく、軽々と平らげてしまう。少しお腹が落ち着いたあたりでイエスの方を見ると、ちょうどイエスも弟子たちとの語らいが一段落したところのようだった。
「改めて、ようこそ、ユダ」
イエスと目が合う。吸い込まれるような優しい目。
「こちらこそ、わたしのような者をお招きいただき、誠に光栄です」
かしこまった言葉を返すと、イエスは笑顔を返す。
「いいんだ。ユダ、わたしもあなたに聞きたいことがある」
「なんでしょうか」
「それはあなたの問いを聞いてからにしよう。あなたもわたしに聞きたいことがあるからここに来たはずだ」
見抜かれているのなら話は早い。
「では──先生 、あなたはなぜ、損得を考えずに奇跡を起こされるのですか? あなたほどの力があれば、人々はどんな対価でも差し出すでしょう。じきに、ユダヤ全土からうわさを聞いた病人たちがあなたのもとに集まってくると思います。それなのに、なぜあなたはあの石工から対価を受け取らなかったんですか? その力は安売りするべきものではないはずです」
割に合わないことは誰だってしたくない。それは、元手と売上が最低でも釣り合ってなければ、到底それを続けていくことができないからだ。一度譲れば、次も譲ってもらえると思われる。そうやって食い尽くされたお人好しを何人も見てきた。特にそれが金でやり取りができることであれば猶更だ。
それなのに、イエスは決してそうしようとはしないらしい。それともイエスは、奇跡の力をどこからか無対価に引き出すことができるとでもいうのか。
イエスはわたしの言葉を吟味するようにゆっくりと頷きながら、答えた。
「あなたは、救いにはそれにふさわしい対価を要求すべきだ、と言うのだね」
「そうです。そしてあなたの力には、それだけの価値がある」
イエスは柔和な笑顔を崩さないまま、わたしに言葉を返す。
「ユダ、あなたは罪の贖いの儀式のために、週に一度、祭司のもとへと通っているだろう」
「ええ」
そうしなければ、帝国からの徴税という裏切りに関わる会計の仕事を、続けていくことは許されないからだ。
「あなたは、その儀式を本当に必要だと思っているか?」
「もちろんです。そうしなければ、仕事をすることさえままならなくなりますから」
とはいえ、正直儀式のたびに出費があるのは未だに腑に落ちないところがある。必要経費とは言え、地味に手痛い出費なのは変わりない。
「では、あなたは神殿の様子を見たか?」
「もちろんです。あなたがそれをめちゃくちゃにした、という話も」
そう言うと、イエスは苦笑する。だがすぐに真剣な目に戻って呟くように言った。
「すぐに元に戻されてしまうとしても、あれは必要なことだった」
葡萄酒が入った盃を強く握りしめ、イエスはわたしをまっすぐに見つめる。
「ユダ、わたしがなぜあんなことをしたか、わかるか」
わたしはいまいちイエスが何を言おうとしているかをつかみきれず、首を振った。
「つまり、わたしは問いかけたかったんだ。『あなたがたは本当に、人々の救いのためにその儀式を行っているのか?』とね」
──そうか。
わたしはやっとそこで、イエスが何を言わんとしているかを理解した。
罪とは本来、「神のみ心に適わないこと」を指すものだ。その基準は旧約聖書の律法が参照される。だからこそ神の民であるイスラエルの民は、律法に照らして罪を犯したと判断された時、その共同体から引き離された状態にあると理解されてきた。そして、そのような人々を再び共同体の中へと迎え入れる──救うための儀式こそ、罪の贖いの儀式であったはずだ。
しかし今やその儀式は、体の良い集金装置としても用いられている部分がある。主にその被害者となっているのは、徴税人たちやわたしのような会計の仕事に携わっている者たちだ。異国の通貨を日常的にやりとりし、ましてや同胞たちから金を巻き上げるわたしたちの仕事はそれだけで罪と断ずるにふさわしい、と律法学者たちから目の敵にされている。それゆえ、神の前に救われるかどうかという以前に、その儀式を受けることは仕事をするための必須条件として課された義務なのだ。
そうであるなら、わたしは。
救いを、金で買わされていると言ってもよい。
「あなたは金の力をよくわかっている。しかしだからこそ、ユダ、あなたに問いたかったのだ。」
イエスはわたしに言う。
「救いとは、本当に金で買えるものだろうか?」
手元の盃の中で葡萄酒が揺れる。
確かにわたしは、金の力によって、罪の贖いという救いを対価として受け取っている。しかしイエスは問うているのだ。
それはわたしにとって本当に救いになっているのか、と。
仕事をするために必要な準備でしかないのではないか、と。
「わたしが癒した石工を、あなたも見ただろう。救いとは、あのようなものを言うのだ。あの癒しを対価を払って医者から得たのなら、彼は救われなかっただろう」
わたしは言葉を紡げずにいる。イエスの言葉がわたしの頭の中で何度も反芻される。
わたしがイエスに感じていた動揺と苛立ちの正体がわたしの頭の中で言葉になる。それは──
「わたしは、人々にとって本当の救いというものを取り戻したいだけなのだ」
──あこがれだ。
わたしはあきらめていたのだ。形式的な儀式に対価を払わなければ仕事をすることさえままならない現実に。
わたしは嫌悪していたのだ。それでも周りの人々から向けられる視線に。
わたしは絶望していたのだ。神の救いなど自分には与えられるはずもないとどこかで諦めていた、わたし自身に。
だから、イエスがあんなにも輝いて見えたのだ。
「わたしは……」
目の前が真っ暗になりかけている。目を背け続けていたことが、まるで津波のように自分に襲い掛かってくるかのような恐怖を背中に感じる。わたしは、もしかしたら。
「わたしは……もう救われないのでしょうか」
こんな考え方をしているわたしには。損得でしか、金でしかこの世を見れなくなってしまったわたしには、イエスの考えが、途方もなく遠くに輝く星のように思える。手を伸ばしたって手が届かないことはわかっているのに、どうしても手を伸ばしたくなる。これまで手を伸ばすことさえバカバカしいと斜に構えていた自分が、とんだ思い違いをしていたことに気付かされる。
わたしは神の前に、罪を犯したのだ。
そしてそれを、繰り返し行われてきた罪の贖い儀式の中で、ただの一度も向き合うことなく、償ってこなかったのだ。
「ユダ──」
怖い。
イエスがわたしを断罪するのが怖い。彼のほうを見ることさえ出来ず、手元の葡萄酒を見つめることしかできない。手が冷え切ったように震え、盃が揺れる。
そこに、その手を優しく包み込むように、イエスの手が添えられる。
「恐れることはない」
わたしは目を上げる。イエスのまなざしが交差する。
そうだ、この人は。はじめからすべてを分かっていて──それでもただの一度も、このまなざしを変えることがなかった。
「恐れることはない、ユダ。だからわたしは、そんなあなたに会いたかったのだ」
わたしの手を包むイエスの手が、不思議なほどのあたたかさを伝えてくる。
「あなたの罪は赦された」
どれほど、その言葉を待ち望んだことだろうか。
その言葉を待ち望んだことさえ忘れて、自分で自分を救おうとして、目を背け、逃げ続け、忘れたふりをして、どれだけ過ごしてきただろうか。
ひとすじの涙が頬をこぼれ落ちる。イエスはそんなわたしの目をまっすぐに見て、わたしの人生を丸ごとひっくり返すための言葉を差し出した。
「ユダ。あなたはわたしの弟子になりなさい」
わたしは、この人に、ついていこう。
わたしを救ったこの人を裏切ることなど、絶対に、あってはならない。