過越祭が近づくにつれて、町中はにわかに活気づく。商売をしているものはここぞとばかりに特別メニューや出店の準備を始める。
過越祭というのはユダヤ教の中で最も盛大に行われる祭だ。
かつてユダヤ人たちがエジプトで奴隷であった頃、王族として育てられた同胞モーセが人々を率いて脱出したという歴史があって、脱出するのに急いでいたからという理由で発酵をさせない種無しパンを作り、苦菜と共に分け合う食事をするのが習わしだ。子どもの頃から耳にタコが出来るくらいにモーセの物語は聞いたものだったが、大人になって見てみれば、伝統は形だけのもので、皆それを理由に騒ぎ、踊り、束の間の楽しい時間を享受したいから続けられているようにしか見えなかった。
過越祭が近付くと、外国に散らばったユダヤ人達がエルサレムへと押し寄せる。彼らはかつて捕囚政策によって他国へと連れ去られ、ユダヤ人でありながら他国に根を張った人々──離散者と呼ばれる。ヘブライ語を第一言語としない、しかしユダヤ人としての信仰と矜持を持って、年に一度はこのエルサレムへと帰って来るのだ。
ここぞとばかりに離散者向けの捧げ物を売る机が神殿の入口の広場にところ狭しと並んでいるのを横目に見ながら通り過ぎる。チラリと見えた値札には平常時とは比べ物にならない値段が捧げ物の動物たちに付けられていて、ため息をついた。いつもは徴税人をあれだけ非難し、私腹を肥やす大罪人だなんだという目で見ていながら、一枚皮を剥げば皆同じではないか。
一週間かけて、頭であったザアカイがいなくなった収税所はだいぶん落ち着きを取り戻したように思う。要は課せられた税金の額さえ集めればよいのであって、そこに何人いようが関係ない、というところで落ち着いたのだった。つくづく徴税人という仕事は損な役回りだと思う。自分が取り立てる立場に立たされたら、と思うと、かつてのザアカイのように、悪を肯定することなしにはやっていけなかっただろう。
わたしは彼らが集めた税を受け取り、集計をして、足りなければ連絡をし、多ければ次の徴収額を調整する。いわば会計士の役を仰せつかっていた。徴税人たちを裏で手を引く番人と見られるか、それとも荒くれたちを取りまとめて帝国に税金を召し上げるための不名誉で不憫な立場と見られるかは人によるが、どちらにせよ良く見られる職業ではない。
金の力は絶大だ。それは今神殿で見た光景がまさに物語っている。金がなければ、神の前に赦されることさえ許されないのだから。
会堂にはいつもよりも多くの人が集まっていた。礼拝前だというのに興奮した囁きがそこかしこから聞こえる。
「聞いたか」
「ああ、両替商のダンナのことか」
「なんでも机をひっくり返された上に、鞭で叩かれたらしいぞ」
「いやいや鞭で叩かれたのは羊を売ってた方だろう」
「すげぇな、なかなか出来ることじゃねぇ」
「だが意味があったか? 今日見たら元通りになってたぞ」
「だが俺はスッキリしたぜ。あいつら、俺達を離散者だからっていつも足元見やがる」
「ちげぇねぇ」
どうやら昨日の出来事を話しているらしい。件の男は神殿に乗り込むやいなや激昂し、神殿の前にところ狭しと並べられていたあの商売人たちの机を引き倒し、聖書の言葉を引いて言ったのだ。
「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか! 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしている!」
じっと彼らの話に聞き耳を立てていると、わたしはだんだん愉快になってきた。さぞその場にいた祭司や律法学者たちは驚いたことだろう。絶句して立ち尽くしているのが容易に想像できる。いったいそんな暴動を起こすほどの豪胆な人物とは誰なんだろうか。
「……それで、件の男というのはいったいどこのゴリアトさんだ?」
「バカいえ、そこはダビデ王と言うべきだろう」
「まさか! ダビデ王の再来なら一目見てみたいもんだ」
「驚くなよ、その男はなんとな…」
前でひそひそと話す男が隣の男ににやりと笑みを浮かべ、あごをしゃくって前を指す。そこにはちょうど今日の朗読と説教のために座っている一人の男がいた。
「あそこにいる、ナザレのイエスなんだ」
わたしが見る限り、イエスという男は特に何か神々しい雰囲気を持っているわけではない、普通の男だった。隣に立つ律法学者たちのようにきらびやかな色のついた上着を羽織っているわけでもなく、装飾品の一つも付けていない。柔らかそうな麻で出来た布地も一部だけで、あとは安価な山羊の毛で織られた部分がほとんどだ。
モーセ五書からの朗読が終わり、二番目の朗読として預言書の巻物を彼が受け取った。その途端に、会衆から衣擦れの音が消えた。誰もが彼に注目し、彼は巻物を開いて朗読を始める。
「『──彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。』」
ガリラヤ地方のなまりが残る、ヘブライ語。やわらかく、しかし芯の通った、良く通る声だった。朗読されているのはエゼキエルの書だ。
他国からの侵略によって、一度イスラエルと言う国はバラバラにされてしまった。神殿は打ち壊され、その生活も、信仰も打ち砕かれた。人々はさまよい、これまでの放縦な生活を悔やみ、神に祈った。神は答えず、人々は侵略国の政策によって連れ去られ、捕囚の民となった時があった。しかしそのような絶望のただなかにある民に、希望を語り続けた人々がいた。預言者と呼ばれる人々だ。
捕囚から解放された後も、人々の生活は苦しいままだった。そのような時に立たされたのが預言者エゼキエルである。彼は神殿を再建するという神の幻を見せられ、再びイスラエルの神を礼拝するために、彼らにとって聖なる、また清いこと──つまり神が望まれる正しいことを為すべきだという神の言葉を、人々に伝えたのである。
「『争いのあるときは、彼らが裁く者として臨み、わたしの裁きによって裁かねばならない。彼らは、わたしが定めたすべての祝祭日に、わたしの律法と掟を守らねばならない。また、わたしの安息日を聖別しなければならない』。」
朗読が終わり、会堂は厳かな、緊張した雰囲気で包まれた。説教が始まろうとしたとき、人々の間から一人の男がふらふらとイエスの前に飛び出してきた。
男が動くたびに、その腕に力が入っていないかのように揺れる。そうだ、男は先週もこの会堂にいた。病のために腕が麻痺し、力が入らなくなった男だ。確か以前は石工であったか。腕が使えないとなると、石工としては致命的だ。
主よ、と男はイエスを見上げる。礼拝が中断されることを嫌った律法学者が男を止めようとするが、もう一人のファリサイ派の人が静かに制止し、会衆に問いかける。
「皆さん、この聖なる日に、安息日についてのみ言葉が読まれました。『わたしの律法と掟を守らねばならない。また、わたしの安息日を聖別しなければならない』。その説き明かしのために、良い機会が訪れました──彼に問いましょう。安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか?」
会衆と律法学者たちの目線が一気に彼に集まる。主よ、憐れんでください、と小さな声が男から告げられる。その弱弱しい声に、一度イエスは優しげなまなざしを向け、顔を上げて会衆に向かって告げた。
「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか?」
凛とした声。先ほどとは打って変わった、強い響きが含まれている。
羊は弱い生き物だ。それゆえ、群れで行動をする。穴に落ちたならけがをしているかもしれない。群れに戻れなければ、鳴き続け、その声を聞きつけた狼に食われてしまうかもしれない。どちらにせよ、翌朝まで放っておけば死んでしまうかもしれない。
「──いないはずだ。それが人間ならば、なおのことだ。だから、安息日に聖なることをするのは、許されている」
イエスはそう言うと、手の萎えた男に「手を伸ばしなさい」と言葉をかける。すると、力なくぶら下がっていた彼の手がぶるぶると震え、持ち上がっていく。彼は驚きと喜びがないまぜになった表情をイエスに向け、手を伸ばした。
「お……おお……! 主よ!」
その手をイエスは取り、男を立たせる。何かを耳打ちした後、男は飛び上がって神を賛美しながら会堂を走り回り、外へと走り去っていった。
──なんだ、あれは。
わたしは呆然とする。律法学者たちはまだ礼拝の途中だというのに、凄まじい形相で歯を食いしばり、踵を返すようにして去っていった。途端に会衆は一気にイエスへと近寄り、会堂内に大歓声が起こる。
いったい、何が起こったのかわからない。病を治す奇跡を起こすということは耳にしていた。今日まで、それは仕組まれた手品か何かだと思っていた。あるいは集団幻想か魔術のたぐいだとばかり決めつけていた。
しかし、今目の前で癒されていったあの男が、手が萎えていなかった時をわたしは知っている。そして不幸にも、その病は彼に襲い掛かったのだ。それすらも仕掛けであったとは到底思えない。
律法学者たちの呼びかけは、イエスを捕えるための罠だったのだ。病をいやしてほしいという人々を拒んだことがないイエスに、安息日の規定を破らせるか、それとも癒しの奇跡を起こさないイエスをペテン師だと糾弾するか、そのどちらかを想定していたのだろう。実際には、そのどちらにもならなかった。そしてそこには、ただ救われた一人の男が残ったのである。
──なんだ、あれは?
動悸が収まらない。ザアカイの話を聞いたときには、きっと自分の利益のためにザアカイを勧誘したのだろうとばかり思っていた。けれども見ればわかる。彼は、目先の利益のために動く男ではない。あれほどファリサイ派の面目を潰し、怒らせておいて、ただで済むはずがない。ましてや、昨日は神殿をめちゃくちゃにし、商人たちを追い出したという。
イエスの所業は必ず最高法院に報告されるだろう。それをユダヤ人たる彼が知らないはずがないのだ。
それなのに──それなのに。
彼は、自分の立場が危うくなるよりも、名も知らないひとりの石工の生活を気にかけたのだ。
そんなこと、到底──
到底、割に合わないではないか。
自分が立っている地面が、足下から崩れ去っていくような感覚がする。今にも逃げ出したくなる。自分には到底理解が出来ないことが、目の前に絶賛されている。あんたこそ救い主だ、神から遣わされた預言者だと、口々に称賛の声が上がっている。
自分の価値観が揺さぶられる中で、わたしは会堂から立ち去ろうとする。興奮に満ちた喧騒が遠ざかるにつれて、冷静さが取り戻されてくるような気がした。
「ユダ」
会堂のドアを開けたところで、聞き慣れた、しかし初めて聞いたような声で、名前が呼ばれた。声がした方を振り向くと、小柄な、かつての上司が会堂のドアの柱に寄りかかるようにして立っていた。
「……カシラ……」
徴税人の頭でありながら、突然その仕事を放り出し、イエスの弟子となった男。ザアカイは、申し訳なさそうな顔を浮かべながら「久しぶりだな」と挨拶をした。