ユダの福音 – 04話

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「すまなかったな」
 安息日が終わった夜の酒場は良く賑わう。店内は程よいざわめきに包まれていて、忙しなくぶどう酒が注がれた木のジョッキが届けられる。一杯目に口をつけたところで、ザアカイは改めて謝罪を口にした。
「大変だっただろう」
「わかっていたら引継ぎくらいしてください」
 憎まれ口を返したが、すでに終わったことだ。特に根に持っているわけではない。実際に彼が抜けた分の負担を担ったのは同労者である他の徴税人たちであり、わたしはそれを指示しただけだったし、それよりも気になることがあった。
「イエスという男は……いったい何者なんですか?」
「何者かはわからん」
 わたしはザアカイという人間を信頼していた。それは彼が実のところ真面目な人間のたぐいであり、だからこそ徴税人たちも彼をカシラとして慕っていた部分がある。悪を悪とわかっているからこそ、それに自らを準ずることができる人間だったからだ。
「だが、あの人は俺を解放してくださった」
 少し考えればわかることだった。自分に嘘をつき続けることは難しいことだし、苦しいことだ。それを仕事のため、生きるためだと言っても、どこかで歪みは生じるものだ。収税所でイエスに悪態をついていた誰もがわかっていたことかもしれない。しかし彼が空けた穴はそれほど大きかったということでもあった。
「そんな簡単なことではありませんよ」
「そうかもしれん」
 ザアカイは口元を潤すように手元の葡萄酒を一口飲み、まっすぐにこちらを見る。
「だが、それでもいいと思えたんだ。仕事を失っても、財産を手放しても、たとえ追われる身になるとしても」
「反逆罪で殺されるかもしれなくても?」
「俺は同胞たちにそれだけのことをしてきた。その自覚はある。そうなっても悔いはない」
 まるで懺悔をするように彼は言う。しかしそれは追い詰められ、自白を迫られた犯罪人としての弱々しい言葉ではなかった。
「俺は生きるためにあの人についていこうと思ったんじゃない。死んでもいいと思ったから、ついていくことに決めたんだ」
 強い意志が込められた響き。
 徴税人をしていた頃の彼には、どこか自暴自棄なところがあった。当然だろう。そういう人間を彼は演じ、また準じようとした。でも──できなかったのだ。準じても、殉じることはできなかった。それは、彼自身ではなかったからだ。
 ザアカイの言葉を聞きながら、自分の中で何かが腑に落ちた音がした。自分がイエスを詐欺師だと思いたかった理由。彼のことを思い起こすたびに胸によぎる、言葉にできない動揺と苛立ち。その内実に何があったか。その答えが見つかった気がした。
「カシラ」
「よせ。もう俺はお前の上司じゃない」
「じゃあ……ザアカイさん。頼みがあるんです」
「なんだ」
 確かめなければならない。
「わたしも、イエスに会いたい」
 彼が何者であるのかを。
 数々の奇跡を対価なしに起こし、病をたちどころに癒し、後先考えずに神殿で暴動を起こし、律法学者や祭司に公然と逆らう。いったい何を考え、どうして、あんな割に合わないことをするのか。
 確かめなければならない。

「ここが俺たちが泊っている宿だ。過越祭が終わるまではここにいる」
 通りから一本入ったところにある宿屋を指さし、心なしか嬉しそうな声でザアカイは言った。もうだいぶん遅い時間で、通りの方は夜通し煌々とした明かりがついているが、こちらは幾分か薄暗く、静かだった。ひんやりとした夜風が心地よい。
 過越祭はおよそ一週間行われる。とはいっても、最初の一日が最も大事な日、モーセの物語における主の過ぎ越しを祝う祭のクライマックスであり、その後は後夜祭のようなものだ。
「来週の安息日の夕方、ここで過ぎ越しの食事をするんだ。そこに席を用意するように言ってみよう」
 ダメとは言わないだろうから、とザアカイは言った。

 一人帰る道すがら、高揚感といくばくかの不安が胸の中で交互に浮かんでは消える。酒に酔った勢いで、というわけではなかったが、思い切ったことをしてしまったかもしれないという思いは後からついてきた。
 イエスについての噂ならいくらでも耳に入る。現時点で既に宗教指導者から目の敵にされている彼は、どんなに楽観的に見積もっても一般的な価値観からは逸脱しているとしか言いようがない。しかもそれが、常人には起こしようがない奇跡とカリスマ的な人気を伴っているとなると、ますます怪しさが募る。平気で神の律法を無視する一方で、論理に齟齬がないという点も、律法学者たちが強く出れない要因の一つだろう。
 一方で、律法学者たちが再三のたまう悔い改め詐欺にはうんざりしている人々もまた、多かったということだ。かつてイスラエル王国が神の罰によって他国の侵略を受けたように、我々が未だに救われないのは神への悔い改めが足りないのだという論理は人々の間で破綻しつつある。だからこそ、目に見える奇跡と救いに人々は飛びつくのだ。
 しかし、奇跡を無償でばらまく行為の裏側に、一体何がある?
 答えは出ない。その方法が、イエス自身の益になるとは思えなかったし、現時点で割に合わない方法を取っているイエスが、途中で利益を求める方針転換をすれば非難は免れないはずだ。もし奇跡の対価を求め始めたなら、それがイエスの最期になる。律法学者へ引き渡せば、いくらかの褒美も期待できるかもしれない。
 そこまで考えたところで、我が家に着いた。質素な独り身の家屋だが、どうせ食べて寝るだけである。簡単に体を拭い、簡素な寝台に寝転がる。目を瞑ると、今朝の会堂での出来事が再び瞼の裏側に焼き付いたように思い起こされる。

 ──あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか?

 安息日に仕事をしてはならない。それは神が与えし律法だ。しかし、イエスは問うたのだ。今まさに目の前で失われるかもしれない財産を守ること、また生きている命そのものを慈しむことは、「仕事、、」なのだろうかと。
 安息日にはあらゆる制限がかかる。神殿での礼拝に関わるもの以外の商いは当然のこと、料理などの家事も禁止されている。どの家庭も安息日の前日には明日一日の食事を整えてから安息日に入るのが普通だ。
 しかしそれが、、、何のた、、、めに行、、、われる、、、のか、、を、今やユダヤに生きる誰一人、考えたことがないだろう。神が定められたのだからそういうものだと思っているし、それを破れば律法違反だということだけが真実だった。それをイエスは改めて問い直したのだ。
 ──なぜ?
 なぜそれをする必要がある? そうやってわたしたちの世界は回っていて、わざわざ問い直す必要がどこにある? 余計に面倒なことにしかならない──割に合わないことを、なぜ、イエスは敢えてし始めたのだろう?
 考えれば考えるほど、イエス自身にとって不利益で損失を招くことばかりに思えてくる。人々からの賞賛がどれだけの金になるというのだ。たとえ人に忌み嫌われようと、金は何物をも凌ぐ力のはずだ。それを身に刻まれてきたからこそ、イエスの全てが、腑に落ちない。
 それなのに、なぜ。
 あんなにも──彼が輝いて見えたのだろう?
「……、」
 こうして答えが出ないことを考え続けている方が無為な時間の使い方かもしれない、と意識的に考えを終わらせる。全ては次に会った時、聞けば良いことだ。それで全てがきっと解決する。やっと訪れたまどろみの中、イエスが石工に向けていたあの優しい目がわたしの脳裏に焼き付いたように思い起こされ、わたしはそれにどこか安堵を覚えながら、眠りに落ちていった。


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