ユダの福音 – 06話

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 収税所の引き継ぎは思っていたよりもスムーズに進んだ。というのも、ザアカイが元頭取として顔を出し、業務改革に手を尽くしてくれたからだった。
 ザアカイが突然仕事を投げ出してしまったことを謝罪すると、同僚たちは彼をあっさりと赦した。それは彼自身の誠実さについて、同僚たちが誰よりも知っていたからだった。徴税人の頭として誰よりも悪人であらねばならなかった重圧を不憫に思う者も多かった。
「このまま帝国の良いように従わされてはいけない。周りからどう見られようとも、自ら悪人になる必要などないんだ」
 そのようなザアカイの言葉に励まされる者も多かった。わたしとザアカイは話し合い、最低限満たさなければならない責任は「ローマ帝国への税金を納める」ことだという結論に至った。逆に言えば、それ以外は帝国に歯向かわない限りはどのように変えてもよい、ということだということに気付いたのだ。
 これまで余分に取り立てていた分を集めて共同基金とし、どこよりも少額の利子で困っている者に貸与する形を取ること。同胞たちに謝罪をすること。必要経費としての額を明確にし、誠実に接し、お互いに痛みを分け合うこと。
 今までどうしてこのような形にしなかったのかと今では不思議に思う。きっと視野が狭くなっていたのだ。自分のことで精いっぱいになり、他者に心を尽くすことができないまま、目の前にある仕事をこなしていく。重圧と抑圧に苛まれることは、こんなにも他者への配慮を失わせるものなのだと、今だからわかる。わたしたちの心を解放してくださったイエスへの想いが、今のわたしたちを支えていた。
 それでは、また、どこかで。今は既に元同僚となった人々とそのように言葉を交わしあって職場を去れるということはなんと素晴らしいことなのだろう。

 過越祭の熱が落ち着きつつある。旅支度を済ませたわたしたちは神殿の境内へと向かった。毎日のようにイエスは境内で人々に話をしているし、人々の群れを見つければ、だいたいその中心にいるため、見つけるのはたやすかった。
「いったいあなたは、何の権威でこのようなことをしているのか!」
 ちょうどわたしたちが境内に到着した時、律法学者たちがイエスと話し合うのが見えた。人々は緊張した面持ちで事の次第を見守っている。
 わたしはそっと群衆の一人に尋ねた。
「どうしたんです?」
「ああ、ラビたちがね、大勢引き連れてイエスを訴えにきたんだ。『あなたは奇跡を起こす力を使って、人々の罪を赦すなどと発言し、まるで神のように振舞っている。しかし神は聖書に証された唯一の神のみである。神を冒涜することは誰であろうとまかりならん!』というんだ」
 そうなんですね、とあいまいに頷きながら、わたしはイエスの方を見る。律法学者たちは、奇跡の力を振るうイエスが、かつての有名な預言者の再来だとか、預言されている救世主メシアだと人々がはやしたてているのが気に食わないのだろう。

 律法学者たちは聖書の律法を文字通り一つ残らず守っている人々だ。律法はわたしたちの生活の全てに浸透しているルールだから、社会的には彼らが最も正しい人間であるということの証とされている。そして、律法は神から与えられたものであるからこそ、その正しさは神に対する正しさでもある。神に対しても人に対しても正しい人間であるからこそ、彼らはこのユダヤ社会の中で最も権威ある立場にいる。そこに、イエスがやってきたのだ。
 イエスは罪の赦しを宣言する。確かに贖いの儀式のように、人の罪が赦されたことを宣言する時はある。しかしそれは限られた儀式とその行程の中で唱えられる形式的な文言としてしか語られてこなかった。
 しかしイエスは違う。その人が何の儀式も行っていないのに、病を癒し、罪の赦しを宣言する。それが神の如き振る舞いと見られ、律法学者たちの逆鱗に触れたのだ。
 イエスは律法学者たちに向けて言った。
「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。」
 律法学者たちは怪訝な顔で「いいだろう」と返した。するとイエスは、人々の方を向いて「あなたがたも考えてみてほしい」と呼びかけ、律法学者たちにこのように尋ねた。
「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」
 その質問を聞いた途端、律法学者たちの顔が苦悶に歪むのが見えた。彼らにとって痛いところを突かれた、という顔だった。
 ヨハネというのは、ヨルダン川流域で悔い改めの洗礼を呼びかけていた人物だ。らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めて荒野で生活するその姿は、聖書に記された預言者エリヤの姿にそっくりだと言われる。彼は人々に、一度きりの悔い改めを誓わせる悔い改めを求め、洗礼を授けることでその人のすべての罪が赦されたことを宣言していた。
 神だけが罪の赦しを宣言できるのであれば、ヨハネはイエスと同じ、神の冒涜の罪に処せられなければならない。しかし律法学者たちはヨハネを罰することはせず、むしろその洗礼を受けに行った挙句、「悔い改めにふさわしい身を結べ」と叱られ、すごすごとエルサレムへと帰ってきた、という話は痛快な噂話として聞いたことがあった。
 つまり、律法学者たちは自分たちの面目を保つために、ヨハネが行っている洗礼は天の神の権威によって為されたものでなく、全くの無効だという理解を示すことにしたのである。もしヨハネが神の権威によって罪の赦しを人々に告げ知らせていたのだとしたら、神に最も正しい人間である彼らが、誰よりも先に彼の声に聞き従うべきであったからだ。
 一方で、律法学者たちはおいそれと「人からのもの」──つまりヨハネ個人による気休めとしての、言葉だけの罪の赦しを行っていたと人々の前で断じてしまえば、暴動が起きる可能性があった。イエスの問いかけを聞いた人々からは、次第に「神からのものだ!」という声が上がり始め、ますます律法学者たちは苦い顔をしている。
「あなたがたがこの問いに答えられたなら、わたしも応えようと思うが、どうか」
 じっ、と。すべてを見透かすようなイエスの目が、律法学者たちに向けられ、彼らはか細く「わからない」と一言返しただけだった。
 イエスはほほえみ、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と締めくくった。先日に引き続き完膚なきまでに叩きのめされた彼らは、渋々去っていった。

 その一部始終を見ていたわたしの胸には、一つの問いが生まれていた。
 確かにわたしはイエスの言葉によって救われた。それは事実だ。しかし、彼の言葉が果たして天からの──神からの権威によって与えられたものであったかということを考えると、わからない。
 あれこそが神の前における救いだったのか。
 それともただ慰めの言葉としてかけられたあの言葉が私の心を震わせただけであったのか。
 つい先日まで自分の罪にさえ向き合ってこなかったからこそ、自信を持って、あれは確かに神による救いだった、と言い切ることができない。何よりイエスは、目に見え、手に触れられる全き人間であるはずだ。
 イエスは神か。それとも何百年かぶりに神から遣わされた預言者メッセンジャーにすぎないのか。
 神とは一体どのようなお方なのか。
 救いとは何なのか──。
 わからない。

「やあ、ユダ。準備はできているようだね」
 悶々と考えている間に、人混みはまばらになり、イエスと数人の弟子たちがわたしの前に集まってきていた。ザアカイもイエスの後ろから、にかっと笑顔を浮かべている。
「ええ」
 イエスはわたしの返答に満足そうに頷き、「それでは、行こうか」と都の門へと足を向ける。わたしはその何の変哲もない背中を見ながら思う。
 わからなくてもいい。わかるまで付いていけばよいのだ。
 きっとイエスはわたしに、あの時のように答えをくださることだろう。


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