ユダの福音 – 07話

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「本当にここを通るんですか?」
 既に何度か繰り返した問いだ。そしてその答えも変わることなく、イエスは事も無げに「もちろんだ」と返した。
 イエスと弟子であるわたしたち一行は、エルサレムからガリラヤのカファルナウムへと向かうことになった。カファルナウムはエルサレムから見てちょうど北の方角で、まっすぐに進めばおよそ百ミリオン百五十キロ ほどのところにある。早ければ四日、余裕を持って歩いて六日ほどだろうか。
 しかしこの最短ルートを通るユダヤ人はほとんどいない。なぜならエルサレムとガリラヤとの間にはサマリアの地が横たわっているからだ。たいていのユダヤ人はもう二日ほど時間をかけてこのサマリアの地を迂回するのだ。
 ユダヤ人にとってサマリアの地とは、避けるべき異教の土地、と思われている。実際には彼らもユダヤ教の亜種とも言える礼拝形式を取ってはいるが、元々は紛れもない同胞たちである──過去に異邦人侵略者の血が混じってさえいなければ。
「先生、彼らは今や、わたしたちの信仰に反して独自の礼拝をしている者たちと聞きます。彼らはユダヤ人を憎んでいますし、ユダヤ人とみれば先生だってご不快な思いをされるかもしれません」
「ユダ、大丈夫だ。エルサレムに来るときにも通った道だ」
 イエスは足を止めずに言う。エルサレムに来るときにも通っただって? 驚いて弟子たちの方を振り向くと、弟子たちも「そうだ」と言わんばかりに肩をすくめて口の端を引き上げた。
「しかしなぜ──」
「行ってみればわかる。わたしは、必要なことをすべて行わなければならない」

 サマリアに着いたときには日が昇り、ずいぶん暑くなっていた。町からは離れたところにポツンと掘られた井戸に腰掛けながら、イエスは弟子たちに食事を買いに行くようにと送り出した。
「シモン、あなたはユダと行きなさい」
 わかりました、と浅黒くガタイのいい男が笑顔で首肯する。イエスがそれぞれの弟子たちに指示を出していく傍ら、その男は上機嫌な笑顔でわたしに近づいてきた。
「シモンだ。イエス様の弟子になる前はガリラヤの漁師だった」
「よろしくお願いします、シモンさん」
 シモンはわたしの言葉を聞くと豪快に笑った。
「敬語はいらねえ、楽にしてくれ。呼び名もシモンでいい。俺たちは皆イエスの弟子、つまり兄弟みたいなもんだ。俺もお前さんをユダと呼ばせてもらいたい」
 いいか? と笑顔のまま問いかけられる。まるで子どものような無邪気な顔だ。きっと性根が素直なのだろう。丁寧ではないが、無礼さは感じない。
「わかった、シモン。よろしく」
「よし、それじゃあ行こう」
 サマリアの町シカルは、町と言うには小さい。町に入った途端、ジロジロと不躾な視線を感じた。シモンの方は気にしていないのか気付いていないのか、お目当ての店を探しながら足早に進んでいく。
「ここか」
 シモンが立ち止まったのは雑貨屋の前だった。店に入ると様々な香りが混ざりあって鼻腔をくすぐる。様々な香がズラリと並ぶ中で、シモンはこれじゃない、これでもない、と探している。
「シモン、一体何を買うように言われたんだ?」
「ナルドの香油だ」
 ナルドというと、はるか東方のほうに生えているとされる植物だ。それをお香にしたものは大変芳しい香りだが、少量でも高価なもので、嫁入りのための持参品の一つでもある。一方、死者の弔いのためにも使われる。
「誰かが亡くなったのか?」
「いや。イエス様の言うことは、たまによくわからんことがある。だが、買ってこいとおっしゃるならきっと必要なんだろう」
 そう言いながら、シモンは、あった、と店内一番奥の棚に並べてあった石膏の壺を手に取った。
「店主、これをくれ。いくらになる?」
 店主と思しき男性はゆっくりとわたしたち二人を見て、「1ダリクだ」と言った。
「ダリク? 聞いたことがない貨幣だな」
 とシモンは首を傾げると、店主はそこで合点がいったような表情でわたしたちに聞いた。
「あんたら、旅人か?」
「そうだ。ガリラヤに帰るところだよ」
「そりゃあ、長旅ごくろうさん。この町じゃダリク金貨、シェケル銀貨、それとアサリオン銅貨でしか支払いができねえんだ。両替してもらわねえとな」
「わかった。あいにくデナリオンしか持ち合わせていない。いくらになる?」
 そうだな、と店主は考えるような仕草をしたあと、見慣れない金貨と銀貨をシモンに見せながら説明を始めた。
「1ダリク金貨は20シェケル銀貨に等しい。1シェケルは5デナリオンで両替してもらいたい。つまり、100デナリオンになる」
 大金だ。1デナリオンが普通の労働者の一日の賃金に等しい額なのだから、100デナリオンは三ヶ月分以上の賃金になる。ポンと出せる金額じゃない。そんな大金を抱えていたから、シモンはいそいそと店に向かっていたわけか。
「100か」
「ああ。だがここは両替屋じゃないからな、両替手数料を上乗せさせてもらう。しめて102デナリオンというところでどうだ」
 店主からの説明を聞いたシモンは「わかった」と頷き、金入れからデナリオン銀貨を並べ始める。わたしは急いでそれを止めた。
「ちょっと待て、シモン」
「なんだよユダ、今の話を聞いてなかったのか?」
「聞いてたさ。聞いて、、、いたか、、、止めたんだ」
 シモンはわたしを怪訝な表情で見る。今の店主の質問に何か間違いがあったとは思えない、という顔だ。こんなどんぶり勘定の男に大金を取引する財布を任せていたのか。危機感すら覚える。
 店主は言う。
「旅人さん、今話した通り、何もおかしいところなんかありゃしないぜ。おかしいと思うんなら別の店にも聞いてきな。1ダリクは20シェケル、これはどこの店だって同じさ」
 すっとぼける店主と全く理解していないシモンに対して、わたしは頷く。
「もちろんそうでしょうね。1ダリクは20シェケル。これは公正な相場です。しかし1シェケルが5デナリオンというのは違うでしょう。本来の為替相場は4デナリオンのはずです。これに1デナリオン上乗せしたのは、手数料のつもりですか?」
「……あんた、何を言ってるんだ? ここじゃデナリオン銀貨なんて何の役にも立たねえんだ。それをここで使える銀貨に替えようってんだから、手数料を取るのは当たり前じゃねえか」
「ええ、それは当然の道理ですよね。ただ確認したいことがひとつ、『4デナリオンを1シェケル銀貨に替えるのに必要な手数料に1デナリオンかかるから、5デナリオンと言った』ということかどうか、です」
「そうだ。そんな当然のことにいちゃもんをつけるくらいなら、ここで取引してもらわなくたって結構なんだぜ」
 店主は不機嫌な目でこちらにすごんでみせる。しかしわたしにとっては先日までよく見た目だった。
「わたしは正当な取引がしたいだけなんです」
 脅しに対して最も必要なことは、脅しに対して反応をしない、ということだ。おびえることも、激昂することもない。金に関する喧嘩は買ったら負けなのだ。
「店主、あなたが今言った通り、『4デナリオンを1シェケル銀貨に替えるのに必要な手数料に1デナリオンかかるから、1シェケルは5デナリオンと両替する』ということを、わたしたちは今確認しました。だとしたら、そこで両替手数料は取られているわけです」
「だとしたらなんだ」
「100デナリオンにさらに両替手数料をかけて102デナリオン、などと言った時点で、あなたを詐欺罪で訴えることができる。なぜなら手数料を二重に取っていることを説明せず、あたかも一度しか手数料を取っていないかのような言い方をしたからです」
 店主が黙り込む。
「預言者エレミヤもこう言っていました。『身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。』あなたも私たちと同じ聖書をお読みなら、知っているはずです。そのあとユダヤわたしたちがどうなったかを」
 この箇所は、ちょうどザアカイが収税所の改革にあたって人々に伝えた聖句の一つだった。かつて悪徳と自分自身の満足のみを求め、弱者から搾取することを厭わず、それでいて、これこそ平和だと宣った人々に向けてエレミヤは言う。
『見よ、わたしはこの民につまずきを置く。彼らはそれにつまずく。父も子もともに、隣人も友も皆、滅びる』。
その預言の通りに、かつてユダヤはバビロニアやアッシリアなどの他国に侵略され、知識人や男たちを他国に連れて行かれる捕囚政策によって、このサマリアの地に住む女性たちは異邦人との交わりを強いられることになったのだ。そのような苦しみを引き寄せたのは、民のむさぼりと欺きであったことを、忘れてはならないとエレミヤの言葉は今もわたしたちに告げているのだ。
「……あんた、何モンだ?」
 苦し紛れのように店主は聞く。
「徴税人の会計士をやっていました。もちろん、ダリク金貨もシェケル銀貨も──アッシリアの通貨はつい先日まで扱っていました」
 そう言うと、店主はああ、と目を閉じ、手を顔に当てて俯く。どうやら観念したようだった。
「──俺の負けだ。手数料は無し、80デナリオンで1ダリク。その代わり、裁判所に引っ張っていくのはやめてくれ」
 シモンの顔がわたしと店主との間を行ったり来たりしている。事の次第がなんとなく理解できたらしく、満面の笑みでわたしの肩を強くたたいてきた。
「すげえ! なんだかわかんねえが、すげえな!」

 80デナリオンを支払ってナルドの香油を受け取ると、しっかりと密閉されている蓋を確認し、割れないようにしっかりと柔らかな布に包んでもらう。店を出たシモンは笑顔のまま、わたしをほめちぎりながら歩き出す。
 帰り際にパン屋に寄り、ついでに葡萄酒を合わせて買ったため、わたしたちの物入れはパンパンになった。ともあれ、イエスに頼まれた買い物を済ませて、イエスが休んでいる井戸の方角へと歩き出す。
「いやあ、俺はこういう……カワセってのは全然わかんなくてよ。魚の種類なら、すぐに覚えられるんだが。ユダ、お前すごいやつなんだな」
「大したことじゃない。わたしも魚を釣れと言われたらうまくできない。人それぞれに得意なことが違うというだけさ」
 町の出口付近で、急いで町へと帰ってきたらしい女性とすれ違う。手には何も持たず、しかしその顔はどこか希望に満ちて明るい。もしかしたら彼女も、自分にできることをみつけたのかもしれない。自然と口元がほころびそうになるのを抑える。井戸が見えてきた。何人かの弟子は既にイエスのもとに戻ってきている。
 シモンが手を大きく降ると、イエスも笑顔で手を振り返してくれた。その時、「必要なことを行う」という彼の言葉をわたしは思い出す。もしや、イエスはシモンが詐欺に遭おうとすることを見抜いていたのだろうか。
 いや、その危険があるなら、そもそも買い物には行かせないだろう。ナルドの香油はエルサレムでも買えたはずだからだ。エルサレムで買えば、両替手数料などで煩わされることもなかっただろうし、エルサレムに来る際にも立ち寄っているのだから、両替が必要なこともイエスはわかっていたはずだ。……そのうえでシモンに財布を預けていたのだから、単にお金に無頓着なところがあるだけかもしれない。
 イエスに事のあらましを身振り手振りで伝えるシモンの後ろに立ち、話が終わるのをわたしが待っていると、ふんふんと頷きながらシモンの話を聞いたイエスが、よし、と立ち上がって言った。
「今日はシカルの町に泊まろう」


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